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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

316 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 01:58:51 ID:???0
続き。

事のおこりは、前々回の、王淩との戦いでした。敗走したとはいえ、こちらは朱然ほどの惨敗ではなかったようで、
かえって魏軍を退かせたりもしています。
勇戦して魏軍を退かせたのは全jの息子達でしたが、そのきっかけを作ったのは、張休(張昭の子)や顧承(顧譚
の弟)の奮戦でした。戦後の評価では、張休や顧承の方が高く評価されたのですが…全j達は、この評価に不満を
抱きます。

彼らは、孫権が病に臥して判断力が弱っているのをみて、張休や顧承への讒言を行います。それも数度にわたって
行われましたから、孫権は、すっかりその讒言を信じ込んでしまったのです。

そしてついに、張休や顧承が、罪なくして処罰されることになりました。先の諫言が容れられなかったことに憤って
いた顧譚がさらに強諌すると、孫権は、彼をも処罰。
顧譚・顧承兄弟は辺境に流罪となり、ある小人に恨みを買っていた張休は、その讒言により処刑されます。
これだけでも大問題なのですが…この、王朝をずたずたに引き裂く裂け目に、丞相の陸遜までもが墜ちたのです。

名行政官たる顧雍が亡くなった後、陸遜は丞相に任ぜられました。とはいえ、魏との戦いが続く以上、任地を離れる
わけにはいきません。かつての諸葛亮の如く、皇帝のおわす都から遠く離れた地で政務を行っていたわけですが…

そんな陸遜に、都の変事が聞こえてきます。何と、吾粲までもが処刑されたというのです。

続きます。

317 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:00:23 ID:???0
続き。

吾粲は、低い身分から累進して太子大傅にまでなった、呉の偉材の一人です。行政・軍事ともに優れた手腕を発揮する
一方、嵐に遭って乗船が沈み、溺れている兵士を、(巻き添えを恐れて他の船が見殺しにする中)自船の危険を顧みず
救出するなど、思いやりの心を持った名臣でした。
彼もまた、この情勢を憂い、孫権にしばしば諫言を呈していたのですが、かえって讒言に遭い、落命したのです。

このままではいけない。陸遜は、何度も上洛(して諫言すること)を請いますが、孫権は、理由を明示することなく、
それを却下します。あるいは、我が心(弟と待遇を同じくされるという屈辱に耐えかねて太子が自ら位を辞するよう
仕向けている)を忖度せよ、という暗黙の意思表示ではなかったか、と書かれていますが…

陸遜がさらに請うと、孫権はこれに激怒。ついに、陸遜は悶死するに至りました。
…以前の江夏諸郡での所業もあり、個人的には陸遜には好感は持っていませんが、国を支える重臣がこのような形で
亡くなるというのは、さすがに…。
ここまでみると、(本来はおかしい言い方ですが)太子派が一方的に弾圧されている格好ですが、この混乱は、まだ
続きます。全jや、(陸遜の死後に丞相となったがほどなく他界した)歩騭も、自身は穏やかに死ねたようですが…。

呉の不幸は、一方で魏の幸福。陸遜までもがただならぬ死を遂げたとなれば、呉国内の混乱は相当なものとみた王淩
は、馬茂という人物を埋伏として送り込み、孫権の暗殺をもくろみますが、これは失敗。
暗殺計画に怒った孫権が、朱然の意見を容れてまたしても魏との戦いが…。

318 名前:左平(仮名):2011/06/01(水) 02:01:43 ID:???0
追記。
「麒麟も老いては駑馬にも劣る」とは言いますが、今回の孫権の耄碌、老害ぶりの凄まじさには、ただただ呆れるほか
ありません。
ただ、(妻や子のことがあったとはいえ)陸遜にもその将器を評価されていた全j、行政・軍事ともに有能な歩騭が、
この件で諫言をしなかったのは…と思うと、ちょっとすっきりしないものが。次回以降、この顛末がどう書かれるか。

それにしても、朱然の書かれ方が結構ひどいです。前々回は司馬懿にいいところなく惨敗。今回は、「呉にはもはや
この程度の将しかいない」みたいな言われ方。
以前の卑衍の書かれ方と比較すると、一武将と司令官クラスに求められるものが違うからなのでしょうが…。

319 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:31:09 ID:???0
三国志(2011年06月)

今回のタイトルは「曹爽」。本作では、個人名のタイトルが来ると、その回あたりで亡くなるフラグ、という感がある
のですが…さて。

まずは、前回の続きから。朱然が、老将とは思えない溌剌さで暴れまわります。魏の将が後方へ回り込もうとするも、
それを一蹴。鮮やかな勝利を飾って、堂々の凱旋を果たします。しばらくぶりの捷報に呉の宮中は湧き返り、孫権も
はしゃぎます(もっとも、そんなにうまいこといくはずはないと思っていたが…なんて言われてますが)。
その三年後、朱然は、栄光のうちに没します(そういえば、二十世紀に入ってその墓が発掘されていますね)。

ただ、朱然の活躍は、魏の南方の民にとっては災厄そのもの。以前にも呉の侵攻を受けた人々は、それを避ける為に
北方に避難していたのですが、空白地の存在を嫌った曹爽は、これを無理に戻させました。その結果がこの有様です。
先の蜀漢侵攻の失敗で、軍事的手腕に疑問符がついている上に、内政面でも失敗したことで、曹爽は、人々の支持を
失いつつありました(その失政を揶揄する歌が歌われる、等)。
しかし、司馬懿が一歩退いたスタンスを取っているためか、成果が挙がっていないにもかかわらず、曹爽派の力は、
むしろ強化されつつありました。
そんな阿呆なことが…と言いたくもなりますが、無能な者が分不相応な権力を持つこと自体は、歴史上、例がない
わけではありません。

続きます。

320 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:33:05 ID:???0
続き。

曹爽派の有力者として名が挙がっているのが、丁謐、何晏、ケ颺の三名です。曹爽に重用され、高位に就いた彼らは、
かつての梁冀の如く、好き勝手に振る舞います(諸候の飛び地を我がものとする、詔書を偽る、等)。
その頭目たる曹爽もまた、それを制止するどころか、自身もそのように振る舞います(調度品を皇帝のものと等しく
する、宮女を我がものとする、等)。
わずかに、曹羲ひとりが諫言しますが、曹爽は、聞く耳を持ちません(ただし、無駄の削減と称して勝手に廃止して
解散させた将軍の兵力を曹羲に持たせるところをみると、曹氏一族の一人としてはある程度信頼しています)。

ただ、彼らも、決して一枚岩ではありません。というか、みな我が強く、互いに見下している、という感じです。
読書家の丁謐は、己以外は皆低能だと見下しています(派閥の頭目たる曹爽も例外ではありません)。ただ、政敵たる
司馬懿だけは賢いとみなしており、それ故に警戒しています。
ケ颺は、すっかり俗物と化し、公然と賄賂を要求する有様。何晏は…まあ、今回は語られていませんが、蒼天でも少し
触れられていた、あれ(五石散)がありますからね…。
曹爽は、彼らは有能である(有能過ぎる故に嫌われていた)と思って重用します。確かに、才覚自体はあるのでしょう
が、これでは嫌われるわけです。

続きます。

321 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:34:49 ID:???0
続き。

さて、彼ら以外で曹爽派の有力者として、桓範の名が挙がっています。こちらは、実際に有能なのですが、とにかく
性格的に問題あり、というところ。
ちょっと嫌味を言われたくらいで妊娠中の妻に暴力を振るい、母子共に死なせるあたり、それだけでも失脚に値する
くらいです(まあ、さすがにこれは悔やんだようですが)。他にも、蒋済に認められなかったことに恨み事を言う等、
むやみに敵を増やすような言動が目立ちます。

そんな中、曹爽派の一人・李勝が司馬懿のもとを訪れます。先の蜀漢侵攻では失敗した彼ですが、行政手腕はあった
ようで、荊州刺史に就任します。この訪問は、その挨拶に…というわけです。
もっとも、実際には、政治的に沈黙している司馬懿の偵察なのですが。ただ、司馬懿もこのことは分かっており、一
芝居うちます。まさに「しばいのしばい(司馬懿の芝居)」。
(妻に話したら駄洒落扱いされましたが…)

司馬懿の呆けた演技は見事なもので、李勝は、かつての英姿と比べ、思わず涙するほど。司馬懿に仕える侍女達は、
というと…笑いをこらえるのに必死でした。

322 名前:左平(仮名):2011/07/04(月) 01:36:27 ID:???0
追記
1、
曹爽達は享楽に耽っているわけですが、ここで出てきたのが「地下室」。名前自体は出ませんでしたが、「春秋時代に
地下室をつくった貴族が〜」というと、鄭の伯有が思い浮かびます。鄭と魏の国力を思うと、曹爽がつくらせたそれは、
相当な規模のものだったのでしょうね。
ただ、伯有の最期を思うと、曹爽の行く末も良いものではない、という予感を持った人々もいたことでしょう。
2、
曹爽の能力については、酷評としか言いようがありません。才能もない、努力もしない、感性も鈍い、鈍さを魅力に変
えることもできない…。
わずかに、優しいところがあるように書かれていますが…。
3、
司馬懿は病を装っているので、表には出られません。そこで、表のことは子に任せるわけですが、今のところ長子の
司馬師しか出てきていません。演義では、これより以前から、次子の司馬昭も(と言うか、司馬師・司馬昭の二人が
セットみたいな感じで)出ているので、ちょっと不思議な感じがしています。

323 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:55:06 ID:???0
三国志(2011年07月)

今回のタイトルは「非常」。いよいよ、魏を揺るがす大事件が勃発します…!

まずは、前回の続きから。李勝が「荊州(けいしゅう)」刺史になる、というのを、司馬懿は「并州(へいしゅう)」
刺史になる、と勘違いします。何度も間違うため、ついには、「わたしは、本州たる荊州の刺史になるのです」と言わ
れる有様。
これで、司馬懿はようやく聞き間違いに気付いた様子(もちろん、これも芝居なのですが)。
その後、李勝は、司馬師・司馬昭兄弟からもてなしを受けて、晴れやかな気分で司馬懿邸を後にしました。

※ざっと検索すると、現代中国語では、荊州→Jīngzhōu、并州→Bingzhouと発音するようです(細かいピンインまでは
 みていませんが…)。個人的には、現代中国語より、日本語での音読み(漢音・呉音)の方が、当時の発音に近いと
 思っていますので、「へいしゅう」と「けいしゅう」の聞き間違い、というのが結構リアルに感じられます。

その足で、彼が曹爽邸に立ち寄ったことは言うまでもありません。司馬懿の現況は、曹爽達にとっては、喉から手が出る
ほどに知りたいことなのですから。
李勝は、ただただ「おどろきました」と言い、司馬懿の様子を語りつつ、涙します。曹爽もまた、どこか浮かぬ様子。
曹爽派からみれば、もっとも厄介な相手である司馬懿の老衰は、喜ぶべきことであるはずですが…(実際、何晏、ケ颺は
浮かれています)。
李勝が涙したのは、人というもののはかなさを感じた、ということもあるでしょう。では、曹爽は?

続きます。

324 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:56:10 ID:???0
続き。

曹爽は、(この時点での)魏の最高実力者。当然ながら、現実の軍事・行政に関わります。その目でみると、司馬懿の
老衰は、蜀漢や呉に対抗できる人材が一人減ることをも意味するのです(李勝が哀しんでいるのも、実際に地方行政に
携わっているが故のもの、と考えると、また違った意味合いが見て取れます。ずっと中央にいたであろう何晏、ケ颺に
は、恐らく理解の外にあることでしょうが)。
もちろん、単なる勝者の余裕、かも知れませんが。

しかしその頃、司馬懿邸では、司馬懿を中心にある謀議が行われます。司馬懿の眼には、炯々たる光が宿っています。
先ほどの痴態をみた者からすれば、これが同一人物かと思うほどに。
「これが失敗すれば、族滅される」
何しろ、曹爽派は皇帝を擁しているのです。それに叛旗を翻すとなれば、並々ならぬ覚悟が必要。この謀議に、司馬
一族以外の者が一人もいないのも、そのためでした。

謀議の内容。それは、曹爽派打倒のクーデターについてのものでした。明年早々、皇帝と曹爽達は、高平陵(先帝・
曹叡の陵墓)に詣でるため、洛陽城を出ます。その隙を突いて…というわけです。
しかし、クーデターを起こすとなれば、その正当性を証明する必要があります。どうしようというのでしょうか。

続きます。

325 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:57:21 ID:???0
続き。

一つ、手段がありました。永寧宮(→皇太后の郭氏)です。皇太后であれば、皇帝不在の折に、非常大権を発動する
ことも可能なのです。ただし、これはあくまで非常手段。
このクーデターは、司馬懿といえども、十分な勝算があって行うものではないのです(もし、曹羲が城内に留まって
いれば…その時は運が無かったと思うしかない、とも言っていますから、まともに対応されたら負けるのです)。

そして、正始十(249)年となりました。

皇帝と曹爽達は、予定通り、高平陵に詣でるべく、出発しました。この一行の中に曹羲がいたという時点で、趨勢は
おおよそ定まったと言えるでしょう。
皇帝と曹爽達が出発したのを見届けると、司馬懿達は、直ちに行動を開始しました。司馬一族の持てる兵を率いて、
永寧宮に参内したのです。

半ば引退した老臣の、それも兵を率いての急な参内。たれもが不審に思うところです。しかし、司馬懿に謁見し、
その英姿をみた皇太后は、その勝利を確信し、できるだけの措置をとることを約しました。

司馬懿が武器庫をおさえようとする際、曹爽邸内で、司馬懿を狙撃するか否か、という押し問答がありましたが、結局
狙撃は行われず。第一段階における、曹爽側の反撃は不発に終わりました。
かくして、司馬懿は、兵権を掌握し洛陽城内をおさえることに成功しました。

続きます。

326 名前:左平(仮名):2011/08/05(金) 00:58:32 ID:???0
続き。

とはいえ、いまだ皇帝は曹爽派の中にいます(皇帝が、皇太后の詔を無効とすれば、一気に情勢はひっくり返る恐れが
あります)。司馬懿は、有力者の支持を取り付けるべく、動きます。

ここで名の挙がった有力者とは、高柔、王観、そして蒋済の三人です。高柔は、かつて曹操と敵対して倒された高幹の
一族ですが、職務に精励し、かつ、法の遵守者と認められて、着実に昇進した名臣。王観は、任地の幽州が難治の地で
あることを正直に申告させた誠実な人物(宮廷の公物を厳格に管理していた為、曹爽に嫌われ転任させられたほど)。
蒋済については、ここまで読まれてきた方々には、言うまでもないでしょう。
彼らを味方につけることで、人々に、自身の正当性を知らしめようとしたわけです。裏を返せば、有力者の支持を取り
付けたなら、皇帝とてその意向を完全に無視することはできない(曹爽派の反撃を封じる、封じるまでいかなくとも、
弱められる)だろう、と…。

ただし、一人例外がいました。桓範です。迷いはあった(最初は司馬懿につこうとした)ようですが、皇帝を擁して
いる、ということで、彼は曹爽のもとに向かいます。このことを知った蒋済は危惧しますが、司馬懿は捨て置きます。

司馬懿による、曹爽達への劾奏。そして、桓範からの情報。曹爽達は、ここに至って、ただならぬ事態にあることを
認識しますが…


追記。
司馬懿によるクーデターの知らせを受けた際、曹爽達は、ただただ呆然としていました(曹羲も、ことの詳細が分から
ないことには…いう具合)。司馬懿の芝居は、かなり効いたようです。

327 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:33:56 ID:???0
三国志(2011年08月)


今回のタイトルは「霹靂」。曹爽達にとっては、まさにそんな感じだったのでしょうね。しかし、それだけではおさまら
ないわけで…。

司馬懿によるクーデターは、ここまではうまくいっていますが、桓範からみれば、まだ逆転の目は残されていました。何
しろ、曹爽側には天子がおわすのです。
天子を擁して副都・許昌に移り、そこで募兵を行えば、十分な兵力が得られます。それに、大司農の印綬もありますから、
兵糧の心配もありません。さらに、天子直々に詔を出せば、皇太后のそれを無効化できる(→司馬懿を逆臣とすることも
できる)のです。

しかし、これだけの好条件を示されながら、曹爽達は動こうとしません。これまで、たびたび兄を諌めてきた曹羲でさえ、
押し黙ったまま。自分達の置かれた状況を理解はしたものの、その状況に耐えられなかったのです。
危機にあっては、人の本性が出てくるものですが、曹爽達は、揃いも揃って肚が座っていなかったようです。

ただし、いつまでも動かないわけにもいきません。いったん事が起こった以上は、何らかの形で決着をつけねばならない
のです。それがいかなる形であろうとも。
天子の側近の中に、その決着とは天子の廃替ではないか、と危惧する者がいました。陳泰と許允です。

続きます。

328 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:02 ID:???0
続き。

ありえない話ではありません。歴史をひも解けば、前例はあるのです。曹爽達の傀儡の如き天子への同情がある二人は、
天子を救うべく、動き始めました。
ともかく、曹爽達がどうなるか。それが分からないことにはどうにもなりません。二人は、司馬懿のもとに赴き、その
真意を確かめようとします。

司馬懿にとっても、ここが勝負の分かれ目でした。曹爽派を完全に潰さないと、逆に自分達がやられる恐れがあるわけ
ですから、許すことなどできません。しかし、それをあからさまに出すと、徹底抗戦される危険性もあります。
曹爽達には、免官だけで済むと希望を持たせる一方で、その後の処断の正当性を損なわないようにしなければならない
のです。
ここは、何とか成功しました。ただし、曹爽派ではない二人の言葉だけでは曹爽を動かせないと思った司馬懿は、曹爽
に信用されている尹大目も遣わし、免官だけで済むという含みを持った返答をしてみせました。

これを聞いた曹爽は、ついに、降ることを決めました。それがいかなる結果をもたらすかも知らないままに。

続きます。

329 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:35:30 ID:???0
続き。

桓範からみれば、余りにも愚かな決断でした。曹爽達は、自らを守るものを、自ら捨て去るというのです。必死に止め
ようとしますが、極度の緊張から解放されることにただただ安堵する曹爽達には届きませんでした。
「元候(曹真)はまことに立派なかたであった。…あなたがたは、犢(こうし)のようなものだ」

父祖の功業によって授けられた富貴に浸り、研鑽することのなかった彼らは、百戦錬磨の司馬懿からみれば、まさに犢
のようなものでした。しかし、このたとえは、単に精神の幼さのみを示したものではありません。
洛陽に戻った彼らを待っていたのは…

まず、桓範。蒋済が「知嚢」と評したとおり、才智に富んだ彼は、いったんは大司農に復職する予定だったのですが、
城門を出る際の言動(詔であると偽って出た、司馬懿を逆臣とした…等)が咎められ、一転して、罪人として捕縛され
ます。もともと、曹爽が降った時点で、ある程度の覚悟はしていたようですが、いったん許されてからのどんでん返し
ですから、これはきついですね。
ただ、同じように城門から出た魯芝や、降ろうとする曹爽を諌めた楊綜等はお咎めなしでしたから、司馬懿が、桓範に
ある種の危険性を感じたのが主因のようです。

続きます。

330 名前:左平(仮名):2011/09/04(日) 02:36:11 ID:???0
続き。

曹爽達は、というと、まずは自邸に戻ることを許されますが、謹慎を余儀なくされます。ただ謹慎するだけではなく、
近隣から動員された八百人の兵から監視されるのです。
庭に出るだけでも囃し立てられるのですからたまりません。おまけに、一切の人の出入りが禁じられているので、食材
さえ入手できないという有様。
さすがに、食材については司馬懿からの差し入れがありましたが、こうしている間にも、曹爽達の過去の行状の調査が
進められていきます。
厳しい監視と飢餓への不安に苛まれた曹爽達は、そのことには気づきませんでした。

そして、彼らの破滅のときがやってきました。公物や宮女の横領等、言い逃れようもない明白な罪状が曝されたのです。
しかし、捕縛され、刑場に送られる彼らは、意外におとなしいものでした。あの時、桓範の言うとおりにしたとしても、
勝てなかったろう。ならば、犠牲が少ない方がよい。そんなことを考える彼らは、まさに生贄の犢でした。

さて、これほどの事件となれば、当然ながら、大々的な裁判が行われることになるわけですが、ここで、今でいう検事
役に充てられたのは、何晏でした。何晏は、ここで曹爽達を強く断罪することで己の延命を図りますが、裁判が終わっ
たところで、捕縛されました。


追記。

司馬懿の狡猾さと、曹爽の甘さ。今回は、これに尽きるように思います。
ただ、司馬懿の狡猾さについては、曹爽を降すための駆け引きはともかくとして、どこかすっきりしないものがあります。
何晏が曹爽派であることは明らかだったのに、なぜ検事役にして曹爽達を弾劾させたのか。このようなことをする意味が
果たしてあったのか。
何晏の人格の卑しさを白日の下に曝すためであったにしても、彼がここまでされなければならない理由は何か…。

331 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:53:48 ID:???0
三国志(2011年09月)

今回のタイトルは「王淩」。先のクーデターは司馬懿の完全な勝利に終わったわけですが、魏の内部に、新たな異変の眼が
生じつつあります。

祖父は後漢の大将軍・何進。母は魏武帝・曹操の夫人。そして、自身の妻は公主(曹操の娘)。何晏は、魏王朝においては、
まさに貴種というべき存在でした。その彼が処刑されたことは、世の人々に大きな驚きを与えたわけですが、かような末路を
予見した人もいました。
その一人が、管輅(字は公明)です。易経等に通じた彼は、その容貌や振る舞いから、威厳がないとみなされ、あまり出世は
しませんでしたが、俗世を超えた眼を持ち、様々な逸話を残しました。
その一つが、何晏についてのものです。彼が何晏に招かれたことは、歴史上、大した事件ではないはずですが、なぜか記録が
残っているというのです。

それは、司馬懿によるクーデターの直前、前年の十二月二十八日のこと。管輅のことを知った何晏が、自邸に招き、己の将来
を占ってほしいと依頼しました。「わたしは三公になれるであろうか」、と。
その際、この頃よくみるという夢の内容を伝えています(鼻の上を青蝿が飛び周り、払っても離れない、というもの)。
それに対する管輅の返答は、ごく大まかに言うと、(高位にあることによる)威はあるが、徳に欠けるため、危うい、という
ものでした。
これを聞いた何晏がどう思ったかは、よく分かりません(管輅の伝には、忠告に感謝したという話もあるようですが、夫人に
心配されるほど行いが荒んでいた何晏が、本心からそう思ったとは考えにくいのです)。

ともあれ、それから間もなく何晏は誅されたわけですから、それを予見した管輅の異才ぶりが、あらためて世に知られたわけ
です。

続きます。

332 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0
続き。

さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の
印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの
です。
恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です
が、何晏もその類であった…ということでしょうか。
wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう
単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。

さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝
室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。
曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。

一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を
受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を
削ぐに至ります。
先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。
夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ
は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。
しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。

続きます。

333 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0
続き。

残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が
都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹
爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。
結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任
は、仲の悪い郭淮なのです。
 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な
 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること
 に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。
これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた
夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。

しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く
持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に
なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。
夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、
演義での創作のようです。

続きます。

334 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 12:44:26 ID:???0
続き。

夏侯覇が亡命した当時、蜀漢の宰相格となっていたのは、費禕でした。この数年前から病床にあった蔣琬は、そのまま回復
することなく亡くなり、費禕がその後任となっていたのです。
費禕は、司馬懿のクーデターの委細をつぶさに検証し、その是非を論じました。これは、いわゆる史論の先駆けというべき
ものです。蜀漢には文化的な要素は少ないのですが、諸葛亮の『出師表』や費禕の史論があるあたり、文化不毛の国という
わけでもありません。
その論は二つあります。一つは、是とするもの(司馬懿は、先帝・曹叡の遺命に基づき、国政を正した)。もう一つは、非
とするもの(先帝・曹叡は、司馬懿と曹爽に後事を託したにもかかわらず、司馬懿は、曹爽の恣行を正すことなく誅した)
です。

是非はともかく、司馬懿のクーデターの影響は大きいものがありました。なるほど、クーデター後、魏の国政は正されては
いる(人材登用等が適正化された)のですが、帝室たる曹氏の一部が滅ぼされる一方で、司馬氏の権力が著しく伸長したの
は、魏の国体の護持という観点からは望ましくないことです。
これを危惧した令狐愚は、おじの王淩に、司馬懿を討つべきではないか、と持ちかけます。

王淩は、王允の甥です。彼は、おじが董卓を討った(それによって国体を正そうとした)ことを誇っていましたから、この
話には興味を示しました。単に栄達だけを考えるなら、司馬懿との良好な関係を保つに越したことはないのですが、王允の
甥であるという自覚が、それを許さなかったのです。

ただ、皇帝を奉ずる司馬懿と戦うには正当性の根拠となる存在が必要です。令狐愚は、楚王・曹彪(曹操の子)の名を挙げ、
彼を奉ずるべきであると主張し、配下を遣わして曹彪に説きます。
一方、王淩も、優秀な息子達のうち、頼りにしている長子・王広にことのあらましを伝え、是非を問います。四十近い壮年
の王広は、司馬懿の善政を挙げ、慎重に振る舞うべきである、と回答します。

事実上、魏の南方を任されている王淩は、かなりの兵力を持っています。その彼が、楚王・曹彪を奉じて司馬懿と戦えば、
どうなるか。なるほど、うかつな動きはできません。
王淩達は、水面下で静かに動いていましたが、その最中に、この計画の中心人物・令狐愚が亡くなります。ここから、一体
どうなるのでしょうか。

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344 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:01:13 ID:sAtiQhzY0
三国志(2011年10月)


今回のタイトルは「老衰」。そういえば、今回登場する主要人物は、みな高齢者…。

令狐愚が亡くなったことで、王淩達の楚王擁立計画は一からやり直しとなりました。落ち着いてみれば、計画の実行はさらに
難しくなったわけですが、王淩は、令狐愚の遺志を引き継ぐかのように、この計画にのめりこみます。
ただし、司馬懿との全面対決はできません。十分な兵力を持っているとはいえ、彼の計画は、魏の国政を正さんがためのもの
なのですから、たとえ勝てたとしても、魏の国力を疲弊させるような行為をするわけにはいかないのです。
それを避けるためには、何とかして、司馬懿をおのが勢力圏内に引き込み、捕斬する必要があるわけですが…。

肚は括っているとはいえ、困難極まりないことです。さすがの王淩にも迷いがあったのか、浩詳という人物に、占わせます。
王淩の言葉に不吉なものを感じた浩詳は、やや曖昧さの残る表現で、王者が興るというようなことを話しました。
王淩は、その言葉を、おのが計画が成功することを示したものだと確信したのですが、実は、(呉における孫権のような)
至尊とまではいかないが高位の人が亡くなる、ということを示したものでした。その、高位の人とは…

さて、ここで話は呉に移ります。王淩が、司馬懿を引き込むのが困難と思ったのは、呉の内部事情が、それをさせないとみた
からに他なりません。孫権は年老いて、もはや、司馬懿自らが行かねばならないような大戦(孫権の親征)を仕掛けることは
ないからです。呉にとっては、戦下手な孫権が出ない方が良いのではありますが、ことはそう単純ではありません。

 しかし、王淩が孫権を「老いた」というのも不思議なもの。なにしろ、王淩の方が年上なのですから。

続きます。

345 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:03:15 ID:sAtiQhzY0
続きます。

孫権は衰えました。衰えて政務への意欲が萎えただけならまだしも、変なところで頑固になり、臣下の諫言を受け入れる度量が
すっかり失われてしまったのです。その讒言によって多くの名臣達を陥れた孫魯班は、ここでも暗躍しました。老いた孫権が、
新たに潘氏(及び彼女との間にもうけた孫亮)を寵愛するようになったのを知ると、彼女達を賛美したのです。
孫亮は、実際、なかなかの資質があったようですが、潘氏は、というと…。

ともあれ、孫権は、娘の言葉に心動かされました。
太子・孫和派と魯王・孫覇派との争いが国を二分するに至り、いよいよ収拾がつかなくなったことに嫌気がさしていたこともあり、
ついに、ある決定を下します。それは、
「太子・孫和を廃し、魯王・孫覇に死を賜う。新たに孫亮を太子とする」
というものでした。

孫権としては喧嘩両成敗というところなのでしょうが、これに納得する者はいたのでしょうか。孫覇は毒を仰いで果てましたが、
何故に自分が死なねばならなかったのか、納得できたとは思えません。
また、孫和も、罪なくして太子を廃されました(後に王として僻地に遠ざけられる)。このような非道が許されてよいのか。そう、
憤る者もいたことでしょう。
魯王派の小人達は処刑され、太子派は、太子の廃替を諌めるも、これまた処刑される者が出ました。

孫権の子は、おおむね才能はあったようですが…孫登、孫慮の早世が惜しまれるところです。

続きます。

346 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:05:58 ID:sAtiQhzY0
続き。

敵国のこのような異常事態を、魏が見逃すはずはありません。将軍として前線に近い新野にあった王昶はこれに気付き、呉を攻める
べきであると上奏し、許しを得ました。
王昶は、これまで様々な官職を歴任し、いずれにおいても成果を挙げてきたそつのない人物です。当然、呉の政情も抜かりなく調べ
上げた上での上奏ですから、司馬懿もすみやかに了承し、王昶と王基・州泰に出撃命令を下しました。

 王昶と王基は、王淩ゆかりの人物です(王昶は、王淩とともに地元で名が知られた人物。王基は、王淩の元部下。中央での王基の
 扱いに王淩が憤り、手元においた、というような話も)。ただし、ともに私より公を重視する人物ですから、王淩の計画を知った
 としたら、どうしたでしょうか。
 州泰は、司馬懿が孟達を攻める際に、先導役を務めた人物。身内に不幸が相次ぎ九年も服喪しましたが、司馬懿は彼を忘れず、喪
 が明けるのを待って起用しました。

まず、王昶は江陵を攻撃します。江陵は要地で城も大きく、容易に落とせる城ではありませんが、ここを攻めることで、敵の耳目を
他から逸らす(王基・州泰への間接支援になる)という意義があります。
守る施績は迎撃しますが、王昶はこれを撃破。施績が籠城すると、挑発した上で引き揚げると装い、追撃してきたところをまた撃破。
鮮やかな勝利を飾ります。
王基は、敵将・歩協が固守して動かないとみると、食糧庫を攻めこれを奪取。数千の人々が降ったといいます。州泰も結果を残した
ので、王昶の計画はみごと成功したわけです。

続きます。

347 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:08:33 ID:sAtiQhzY0
続き。

さて、魏に攻められたとなれば、呉は当然に反撃してくるはず。王淩は、これを好機とみて、呉が川をせき止めたことを上奏して、
呉を攻めたい(あわよくば、これで司馬懿を誘い出したい)と申し出ます。
が、これに、司馬懿は不審を抱きます。
この頃、司馬懿は病が悪化しており、自邸から出るのも辛い状態になっていました。しかし、それを抜きにしても、この上奏には
不自然な点がありました(剛毅な王淩がこの程度のことで…というわけです)。

司馬懿は動かない。それを知った王淩は、やむを得ず、実力行使に出ようとします。しかし、それには、令狐愚の後任である黄華
を取り込む必要がありました。
使者が、黄華のもとに向かいます。しかし…
令狐愚が亡くなったことで、計画には(王淩からみて)赤の他人が多く関わるようになっていました。それは、計画が漏れる危険
性が高まることでもありました。

黄華は、かつて魏に背いたことのある人物でした。それ故、利をちらつかせれば味方に引き込める、と王淩はみたのですが…彼は
根っからの反逆者ではなく、このことを中央に知らせます(使者も寝返った)。
司馬懿も、王淩の計画を(噂でですが)耳にしてはいました。それ故、この知らせにも驚きはしなかったのですが、人というもの
の不思議さを実感せずにはいられませんでした。
ともあれ、王淩を止めねばなりません。司馬懿は、最後のご奉公だ、と言い、自ら王淩のもとに(兵を率いて)赴きます。

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356 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:45:08 ID:bT4gIyLs0
三国志(2011年11月)


今回のタイトルは「交代」。いつの間にか世代交代の時期になっています。

司馬懿自らが兵を率いて南下中。それは、王淩を討伐する軍である。この知らせは、王淩を驚愕させました。挙兵しようにも、
完全に機を逸したのです。
そのせいでしょうか。司馬懿と、長子・王広からの書簡を読んだ王淩は、自ら出頭しました。自首すれば罪に問わない。その
ようなことが書かれていたようです。しかし、司馬懿は、そんなに甘い人物ではありません。
かつて、孟達を討った時がそうでした。そして、曹爽を倒した時も。司馬懿にとっては、ことばもまた計略の一環。敵に対する
信義などというものは、端から存在しないのです。

小舟に乗った王淩は、司馬懿のいる旗艦に近付くことを拒まれました。ここに至って、初めて騙されたことに気付いた王淩は、
わたしを騙したのか、と叫びますが、「君を騙しはしても国家を騙しはしない」と言い返され、絶句します。
引き続き太尉の印綬を持たされましたが、都に着けば、楚王擁立計画の全容を暴かれ罪に問われることは確実。王淩は、毒を
仰ぎ自決しました。享年八十。

王淩自身は太尉として死にましたが、その息子達は、皇帝廃立を目論んだ者に連なるとして処刑されました。かつて令狐愚に
仕えていた単固という人物も、連座して処刑されました。
擁立されるはずだった楚王・曹彪は自決に追い込まれ、その属官達も処刑されました。
「謀叛」というものは、たとえ未遂に終わっても族滅に至る重罪。過酷とはいえ、ここまでは、仕方のないことではあったの
でしょうが…

続きます。

357 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:49:44 ID:bT4gIyLs0
続き。

これほどの大量処刑があったにも関わらず、百官からは、なお処罰が甘いという声があがりました。司馬氏が魏の実権を掌握
しつつあることを認識し、それに媚を売ろうとしたのです。
太尉として死んだ王淩や刺史として死んだ令狐愚の墓が暴かれ、遺骸は晒し者とされました(その後、直に埋められている)。
そんな中、馬隆は、かつて令狐愚の客であったことから、晒されていた遺骸を引き取って埋葬し、さらに喪に服しました。
馬隆の行動は称賛されたことからみても、令狐愚達は、(先に司馬懿に欺かれて滅んだ)曹爽達とは異なり、為政者としては
優秀だった(民に慕われた)ことが分かります。

この直後、司馬懿の病は急速に悪化しました。老齢で無理をしたことが堪えたのでしょうが、王淩の祟りだという声があった
のも無理からぬところ。結局、その年のうちに亡くなりました。

しかし、司馬氏の権力は弱まりません。伊尹の故事(伊尹が亡くなるとその子の伊陟が継いだ)に従い、長子の司馬師が引き
続き実権を掌握し続けたからです。
時に司馬師は四十四歳。しかし、その真意を知る者はいません。仕官して日が浅いというわけでもないのに、どこか謎めいた
存在感を放っています。ただし、この年は服喪期間につき、その実像が明らかになるのは翌年以降になります。

魏の方がひと段落ついたところで、話は呉に移ります。


続きます。

358 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:55:43 ID:bT4gIyLs0
続き。

この年、呉では災害が相次ぎました。当然、人々は不安に駆られるのですが、孫権がしたことといえば、大赦くらい。政務に
対する関心がすっかり失われていました。

そんな中、外出した孫権は発熱して寝込みます。孫権は高齢。万一のことがあれば…。ここでも、皇后となった潘氏や孫魯班
らが暗躍します。
寝込んでいる孫権ですが、ときどき意識を取り戻し、太子の廃立は誤りではなかったか、と問いかけます。もちろん、潘氏達
がこれを是とするわけはありませんから、何とか言いくるめるのですが。

いくらかは回復したものの、もはや孫権の余命は僅か。遠からず死ぬことを自覚した孫権は、孫和の復位が成らないとみると、
幼い孫亮を補佐する者を推挙するよう命じます。
群臣達は、こぞって諸葛恪を推挙しますが、孫権は難色を示します。彼が後事を託するに値しないとみたからです。ここまで
目立った失策はなかったはずですが、諸葛恪という人物に、どこか危ういものを感じたようです。すっかり衰えた孫権ですが、
時に、往年の冴えを取り戻すことがあります。もっとも、諸葛恪にまさる人物がいないこともまた事実。

 秀長亡き後の豊臣家、とまではいかないまでも、陸遜がいれば…と思う呉人も多かったでしょうね。

諸葛恪に後事が託されることは、潘氏達としても望ましくありません。かつての呂氏の如く垂簾政治を行いたい、という野心を
抱く潘氏にとっては、諸葛恪が全権を担うなどというのは悪夢でしかないのです。
孫権との面会をさせない、ということには成功しましたが、さて…。


追記。
印象に残った人物が二人。
まず曹彪。皇帝の使者から「何の面目あって武帝にまみえるのか」と言われ、怒りの目を向けるあたりは、帝室の一員としての
矜持を感じさせます。
司馬懿は、皇帝の留守をついてクーデターを起こしたわけですが、これこそ、皇帝をないがしろにする叛逆ではないか。司馬懿
に言われるがままに帝室の一員たる曹爽達を滅ぼしたのは、おのが手足をもぎ取るが如き愚行。その心の声を形にしようとした
のが、王淩ではなかったか。彼こそ、武帝の恩に報いようとした忠臣。ゆえに、われは王淩と共謀した…。
確かに、即位時は幼弱ではあったでしょうが、それから既に十年以上が経っています。それにもかかわらず、おのが意志を見せ
ない曹芳は、愚かと言われてもしょうがないのかも知れません。一方で、王淩達が曹彪の擁立を考えたというのも分かります。
次に、孫峻。物事をはっきり言う性格を孫権に気に入られたということですが、潘氏や孫魯班、それに、潘氏に取り入る孫弘ら
と比べると、善良な人物に見えてきます(非凡という風でもありませんが)。

司馬懿存命中の時点で、魏の群臣が司馬氏に媚び始めた、というのが気になります。司馬氏の王朝たる晋は中国史上最も脆弱な
統一王朝だったように思うのですが、このあたり、何か関係があるのでしょうか。

359 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:19:39 ID:???0
三国志(2011年12月)


今回のタイトルは「晩光」。孫権がいよいよ最期のときを迎えるわけですが、曹操・劉備とは異なり、本人の知らぬところでの
政争が繰り広げられます。そのせいか、今回は、いささか違った雰囲気が。

孫権から後事を託された諸葛恪は、ある人物に声をかけられます。上大将軍の呂岱です。呂岱は、諸葛恪に「あなたは、(事を
行う前に)十度お考えになるべきです」と助言しますが、諸葛恪は嫌な顔をします。
この言葉は、季文子(季孫行父)が三度考えた(後に事を行った)、ということを踏まえてのものと思われますが、諸葛恪には、
考える回数が多い分、自分が季文子に劣る、と言われたように感じたからです。
呂岱は、諸葛恪が、人の助言に耳を傾けないその性格ゆえに失敗することを危惧しますが、もはや為すすべはありません。
 しかし、七十歳の老皇帝(孫権)が後事を託する者達の中に、九十一歳の老将(呂岱)がいるというのも、不思議なもの。
 また、季文子が三度考えたことに対し、孔子は「二度考えれば足る」、としたことについての考察も、なかなか興味深い
 ものがあります。

才覚はあるとはいえ、危うさを抱えた諸葛恪に、いかに掣肘を加えるか。孫権も、このことはよく承知していました。皇子達の
封地にも、その意図が見えるといいます(長江に沿う形で、孫奮、孫休、そして孫亮を配置。廃太子・孫和は、孫氏にとっては
興隆の地だが地味の悪い長沙に配置することで復位はないことを示す)。
細かいところはこれからとしても、孫権亡き後の、おおよその形ができてきたというところでしょう。しかし、いかに制約を加
えたところで、諸葛恪が巨大な権力を持つことは明らかです。潘皇后の垂簾政治、という形をとって自らが実権を握りたい孫弘
としては、何とかしたいところです。

そんな中、ある事件が起こります。

続きます。

360 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:21:12 ID:???0
続き。

潘皇后が急逝したのです。看病疲れはあったにせよ、子の孫亮が幼いことからも分かるように、まだ若く特に持病もない皇后の
急逝に不審なものを感じた(首筋に痕跡があるのに気付いた)諸葛恪は、みずから調査にあたります。
不審者が侵入したのではないか。皇后の侍女に、ついで衛士に問うものの、そのような者はいませんでした。どこか衛士の死角
をついて侵入したのか、と周囲を調べますが、死角は見当たりません。
事件は迷宮入りか、と思われましたが、再度衛士に問うたところ、侍女達に不自然な行動がみられたことから、真相が明らかに
なりました。

やはり、皇后は殺害されたのです。はじめ、侍女の証言に怪しいところがなかったのは、彼女達の間で口裏合わせがあったため
でした。それほどまでに、皇后は憎悪されていたのです。
この事件の少し前に改元が行われましたが、それをもってしても、呉の不運は祓えなかったのです。

孫権の病状は、いっこうに回復しません。不安に駆られた呉の人々は、この頃、神と尊崇されていた王表のもとに集まるように
なります。
王表には、論戦を仕掛けてくる相手を言い負かすだけの弁才と学識があったことは確かなようですが、いくら彼でも、死にゆく
孫権を救うことはできません。このまま孫権が死ねば処罰されることを悟った彼は、姿を消しました。
王表が神であったかどうかはともかく、彼の逐電は、呉から神が去ったことを暗示していたのでしょうか。孫権の容態は、この
後、悪化の一途をたどります。

続きます。

361 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:22:50 ID:???0
続き。

皇后の急逝にも、どこかうつろな孫権。しかし、おのが死を自覚した孫権は、あらためて、後事を託すべき者達を招集します。
呼ばれたのは、諸葛恪、孫弘、滕胤、それに呂拠の四名(孫峻は、孫権の命をうけて招集する側)です。
孫権は、諸葛恪が独断に走らないよう、入念に指示をします。そこまで指示しないといけないのか、とも思いますが、そんな
諸葛恪にまさる臣下がいないがゆえのこと。

これが、皇帝・孫権の最期の詔。と言いたいところですが…いつ亡くなるか分からないとはいえ、まだ生きている以上、これ
とは異なる詔が出る可能性も否定できません。
この日は、孫弘が孫権の看護にあたることになったのですが、孫峻は、これに嫌な予感を抱きます。翌日、他の者と交替する
までの間、孫権の容態を知る者が、孫弘ただ一人になる。これが何を意味するか。

はたして、孫弘にはある予感がありました。「陛下は、今夜、亡くなる」という予感が。孫弘が、諸葛恪を失脚させて自らが
実権を握るためには、何としてでもこの機会を逃すわけにはいかないのです。この間に、孫権が何を話したか、話さなかった
か。それを知る者が孫弘のみということになれば、彼の勝ちなのです。
この夜は、孫弘・孫峻の二人にとっては、とても長く感じられたことでしょう。孫権が生きて朝を迎えるか否かで、すべてが
決まるのです。

孫権の容態を確認しながら、孫弘は、孫権の生涯に思いを馳せます。孫弘にとっての孫権とは、正直言って、よく分からない
存在でした。学問好きということだが、酒癖が悪いと印象が強く、何が偉大なのかよく分からない…が、それゆえに偉大なの
であろう、と。
そして…孫権は、殂きました。

続きます。

362 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:25:12 ID:???0
続き。

孫権の死を確認した孫弘は、室外の衛士に指示を出すと、直ちに動き出しました。諸葛恪や孫峻に気付かれる前に、孫弘に
都合のよい遺詔をつくらねばならないのです。
しかし、ほどなく、孫峻がやってきました。衛士に阻まれた孫峻が諸葛恪を呼び、兵を引き連れた諸葛恪が衛士を制して中
に入ると…。

孫権の死を知った二人は、孫弘が何をしようとしているかを察しました。ことは、一刻を争います。

孫峻が、諸葛恪が呼んでいる、と孫弘を誘い出し、諸葛恪がこれを斬殺。これにより、一応の決着はついたわけですが、孫
弘もまた、孫権が後事を託した者達の一人であったことを思うと、呉の前途は、決して明るいものとは言えません。


追記。
今回は、諸葛恪・孫峻・孫弘の三人の心理描写が目立ちました。孫権の死を扱った回なのですが、孫権その人については、
あまり触れられていません。これが、彼の偉大さの一端なのでしょうか。
印象的なのは、職務に忠実な衛士達の姿です。孫権の気まぐれのために国政が乱れても、私欲から来る重臣達の権力闘争が
あっても、彼らは、ただ自らの職務を果たしています。
諸葛恪が、自らを阻んだ衛士を指して「忠の者だ」と言って殺さなかったことに、わずかな救いが感じられました。

363 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0
三国志(2012年01月)


今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく
動こうとしています。

まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し
たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。
さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に
亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。
性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。

これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、
すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。
司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も
また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。
諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに
ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。

魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿
のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて
目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい
でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。

続きます。

364 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:30:09 ID:???0
続き。

ただし、あまりの大軍ゆえか魏軍に油断がありました。そこを、呉の歴戦の勇将・丁奉が突きます。僅かな兵で敢然と攻撃を
加えると、魏軍は存外あっけなく敗走。諸葛誕・胡遵の軍勢が敗走したと見るや、毌丘倹、王昶はすぐさま撤退。
諸葛恪は、労せずして大勝利を収めました。これにより、彼の呉国内での声望は絶頂に達します。

しかし、この大勝利は丁奉の勇戦によるものであり、諸葛恪には、自分が為したという実感が余りありませんでした。実感の
伴わない大勝利のゆえ、もっと戦果が挙げられたのではないか、という思いが日々強くなっていきます。
そして、ついに、再度の魏との戦いを決します。先の戦いから日も浅く、国内には厭戦気分が濃厚にあったのですが、これを
無視しての強行です。孫峻は、そんな諸葛恪に嫌悪感を抱きますが、ここではどうすることもできません。

もちろん、諸葛恪にしても、単独で魏とあたるのは危険すぎるということくらいは承知していますから、蜀漢との連携を考え
ました。使者が、蜀漢に赴きます。
これまで呉と蜀漢とが連携して魏にあたろうと試みたことは何度かあったのですが、いずれもうまくいっていません。蜀漢は
その成立の経緯からして、魏とは不倶戴天の仇敵ではあるのですが、諸葛亮の死後の軍事行動はやや控え気味です。呉の要請
があっても、動くかどうかは未知数でした。
諸葛恪に、それをどうするかといった見通しがあったのかは分かりませんが…この時は、うまくいきました。ちょうどこの頃、
蜀漢では一大事が発生していましたのですが、これが大きく影響していたのです。

続きます。

365 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:34:00 ID:???0
続き。

その一大事とは…費禕の急死でした。ただの死ではありません。宮中で殺害されたのです。

超人的な記憶力と事務処理能力を持ちながらも、自らが諸葛亮に及ばないとみていた費禕は、無理な軍事行動は控えました。
その分は内政の重視に向けられ、蜀漢はしばしの休息の時を享受します。
費禕は、蜀漢にとってかけがえのない人物でした。それゆえ、身辺にはご注意いただきたい。名将・張嶷はそう忠告したの
ですが…魏の降将に高位を与え宮中に出仕させたことが、仇となりました。

費禕の死により、積極路線の姜維の発言力が強くなりました。費禕と姜維は、ともに諸葛亮を篤く尊敬していたのですが、
その見るところは異なっていました。費禕は、その並外れた政治手腕と公正さに、姜維は、大敵・魏に敢然と立ち向かった
雄姿に、憧れていたのです。

諸葛恪からの使者が蜀漢に至ったのは、ちょうどそんな折のことでした。姜維はこれを承諾し、皇帝・劉禅もこれを是認。
ひとりこれを危惧した張嶷は、諸葛恪のいとこにあたる諸葛瞻に書状を出しました。(父に及ばないことを自覚しているが
故に)誠実なことで知られたいとこの言葉なら、むげには扱わないだろうと見越してのことです。
しかし、皇帝が是認した以上、出師は止められません。

ついに、両国の軍勢が出陣しました。魏の宮中は騒然。司馬師は、またしても大きな決断を迫られることになります。

366 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:39:18 ID:???0
追記。

今回の時点では結末は描かれていませんが、司馬師と諸葛恪の明暗が交錯しているような印象があります。

前半に描かれた戦いでは、司馬師は、十分な兵力をもってすればまあ良かろうとやや軽く考えており、魏軍も、大軍故に
寡兵の丁奉を侮りました。一方、諸葛恪は、彼には珍しく人の意見に耳を傾け、慎重に対応。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」などと言いますが、一見すると負けるはずのなかった魏があっけ
なく敗れたのも、ちゃんと理由があってのことでした。
後半は、逆に、諸葛恪に油断があります。先の戦いでは、なるほど諸葛誕・胡遵を打ち破りはしたものの、毌丘倹、王昶
の軍勢は無傷で撤退しています。ともに実績のある将であることは、これまでの経歴をみれば明らかなわけですから、次
に彼らとあたった時はどうか…と考えておくべきでしょう。

この戦いの結果、両者とも、より強い権力を掌握しています。これの運用次第で、情勢が大きく変動することは自覚して
いたでしょうが…さてどうなるか。

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